一昨日の明日香村作戦で今回の帰省での古墳ツアーは終了のつもりだったのですが、親父が向日市にある古墳に連れってやるというので、素直に言う事を聞いて見に行く事にしました。
向日市というのは、自分の実家がある長岡京市の上(つまり北)にある街で、昔から「向日町(むこうまち)」と呼んでました。ついでに言うと、長岡京市はもともとは「長岡町(ながおかちょう)」で、どちらの街も1972年に市制施行されているのですが、今だに向日町と呼ぶ事が多いので(向日町の名を関した施設やランドマークも多い)、本作戦も向日町の名を冠する事にします。
古墳の周囲は公園化されているのですが、整備された古墳は大抵柵などしてあって中に立ち入れないのですが、この古墳にはそうした野暮な物がなく、古墳の上に上がれます。いや、厳密には「キケン!のぼらないでください」と立て看板が立っているので、上がっちゃいけないのでしょうが、それは史跡保護の為に入るなという意味でなく、うっかり転けて落ちたら危ないからダメよ、という意味の様です。現にみんな登っているみたいで、斜面にいくつか階段状になった部分がありました。
そこで自分も登ってみたのですが、斜面は結構急で登りはともかく、下りで足滑らせて落ちたら危ない感じでした。しかし、小高い円墳部からの眺めはなかなかなもので、大昔、田んぼしかなかった頃は辺り一面が見晴らせたんだろうな、と感じました。
この古墳の凄いところは、立派な石室が残っていただけでなく、その石室から排水する排水溝が今も機能している事です。千年以上経っても使える知恵というか技術を持ってた古代人ってのは凄いなー、と感じました。

物集女車塚古墳
パッと目にもデカイ古墳ですが、間近に見れるのが良いです

解説板
(字が細かいので大きめの画像で載せました)

円墳部から方墳を眺めた図
高さは3階建てくらいで、結構高いです

親父の後ろのコンクリの部分が周濠のあった所

石室はこんな感じで出入り出来る様になっていますが
普段は中に入れません

石室と石棺の解説板

これが排水溝
石でキッチリ組まれています
大極殿跡といっても、長岡京から平安京に移った時、建物などは全部平安京に移築したとの事で、かつ長岡京が放棄されたあと、大極殿跡も農地になってしまったとかで、その大極殿跡は長い間、位置が特定されてませんでした。発掘調査の結果、ここが大極殿跡と特定された訳ですが、もともと農地だった事もあって今は宅地のど真ん中で、大極殿跡に行く道も細いコチャコチャしたのしかなく、観光地化は難しい様です。

大極殿跡
跡と言われても、建物が復元されている訳ではないので
ちょっとイメージしづらかったです

後殿(小安殿)跡
帝が政務中に休憩する場所
今は公園化されていて、球技とかしない様に注意書きがありました

大極殿公園解説板
たった10年くらいしか都が置かれなかったといえ、それでも都が置かれてた事は郷土の誇りであったらしく(自分も誇りに思ってますがw)、明治の頃にデカイ石碑が建てられたそうです。また、今上天皇皇后両陛下も行幸されたとか。
自分は実家を出る18歳まで長岡京市に住んでいたのですが、長岡京の大極殿跡を見るのは実は今回が初めてでした。まぁ、昔はフィールドワーク的なものに大して興味を持ってなかったというのもあるのですが(その癖、歴史は得意科目だった)、近場の地元って事もあってあまり行こうと思わなかったのです。東京に住んでると東京タワーやスカイツリーに行こうとあまり思わないのと同じ様なもんです。なので、今回はプチツアーながら、地元の誇り?を見る良い機会になりました。
向日市というのは、自分の実家がある長岡京市の上(つまり北)にある街で、昔から「向日町(むこうまち)」と呼んでました。ついでに言うと、長岡京市はもともとは「長岡町(ながおかちょう)」で、どちらの街も1972年に市制施行されているのですが、今だに向日町と呼ぶ事が多いので(向日町の名を関した施設やランドマークも多い)、本作戦も向日町の名を冠する事にします。
ところで、長岡京市というと、如何にも昔、長岡京市に長岡京があった様な印象を持たれるのですが、朝政が行われた大極殿は実は向日町にありました。それが何で向日町になったかというと、市内にある向日神社の名に由来するとの事です。
■物集女車塚古墳
連れて行かれたのは、ウチから車で約15分ほどの所にある物集女車塚古墳。長岡京にも「車塚」と名が付く古墳が多いのですが、車塚の車は、昔の貴人が乗る車の事で、この名前が付く古墳は大抵は前方後円墳です。長さ43〜48m、高さ7〜9mと大きめの古墳で、間近に立ってちょっと圧倒されました。古墳の周囲は公園化されているのですが、整備された古墳は大抵柵などしてあって中に立ち入れないのですが、この古墳にはそうした野暮な物がなく、古墳の上に上がれます。いや、厳密には「キケン!のぼらないでください」と立て看板が立っているので、上がっちゃいけないのでしょうが、それは史跡保護の為に入るなという意味でなく、うっかり転けて落ちたら危ないからダメよ、という意味の様です。現にみんな登っているみたいで、斜面にいくつか階段状になった部分がありました。
そこで自分も登ってみたのですが、斜面は結構急で登りはともかく、下りで足滑らせて落ちたら危ない感じでした。しかし、小高い円墳部からの眺めはなかなかなもので、大昔、田んぼしかなかった頃は辺り一面が見晴らせたんだろうな、と感じました。
この古墳の凄いところは、立派な石室が残っていただけでなく、その石室から排水する排水溝が今も機能している事です。千年以上経っても使える知恵というか技術を持ってた古代人ってのは凄いなー、と感じました。

物集女車塚古墳
パッと目にもデカイ古墳ですが、間近に見れるのが良いです

解説板
(字が細かいので大きめの画像で載せました)

円墳部から方墳を眺めた図
高さは3階建てくらいで、結構高いです

親父の後ろのコンクリの部分が周濠のあった所

石室はこんな感じで出入り出来る様になっていますが
普段は中に入れません

石室と石棺の解説板

これが排水溝
石でキッチリ組まれています
■長岡宮大極殿跡
次に向かったのが、長岡京の大極殿跡。物集女車塚古墳からは車で約10分くらいのところですが、最初、親父が「ここだ」と言った場所は、どうみてもタダの公園でした。まぁ、史跡が公園化されている所は多いのですが、流石にブランコとかが置いてあったりする所はないので、Googleマップで調べてみたら、その公園の裏手にちゃんと整備された大極殿跡がありました。大極殿跡といっても、長岡京から平安京に移った時、建物などは全部平安京に移築したとの事で、かつ長岡京が放棄されたあと、大極殿跡も農地になってしまったとかで、その大極殿跡は長い間、位置が特定されてませんでした。発掘調査の結果、ここが大極殿跡と特定された訳ですが、もともと農地だった事もあって今は宅地のど真ん中で、大極殿跡に行く道も細いコチャコチャしたのしかなく、観光地化は難しい様です。

大極殿跡
跡と言われても、建物が復元されている訳ではないので
ちょっとイメージしづらかったです

後殿(小安殿)跡
帝が政務中に休憩する場所
今は公園化されていて、球技とかしない様に注意書きがありました

大極殿公園解説板
たった10年くらいしか都が置かれなかったといえ、それでも都が置かれてた事は郷土の誇りであったらしく(自分も誇りに思ってますがw)、明治の頃にデカイ石碑が建てられたそうです。また、今上天皇皇后両陛下も行幸されたとか。
自分は実家を出る18歳まで長岡京市に住んでいたのですが、長岡京の大極殿跡を見るのは実は今回が初めてでした。まぁ、昔はフィールドワーク的なものに大して興味を持ってなかったというのもあるのですが(その癖、歴史は得意科目だった)、近場の地元って事もあってあまり行こうと思わなかったのです。東京に住んでると東京タワーやスカイツリーに行こうとあまり思わないのと同じ様なもんです。なので、今回はプチツアーながら、地元の誇り?を見る良い機会になりました。
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